本記事のメイントピックス
①本記事の投稿背景と皆様に提供したいきっかけを紹介
②私自身の人生における強い後悔を紹介
③日常写真:記録を残すことが持つ価値を記載
導入-本記事の投稿背景
“1枚でも多くの日常写真:記録を残せばよかった…”
お疲れ様です。
今でも自分の中に強く残る後悔を糧に、日常写真:記録に関する記事を投稿します。
今回の記事投稿において、皆様に提供したいきっかけは下記になります。
①今の日常生活:将来取り戻せない記録を保管するきっかけ
⇒(無価値にも思える)今のとりとめのない記録を残してほしい
②残した記録が将来において、自分自身にもたらす価値を考えるきっかけ
⇒将来において、今のとりとめのない写真:記録がもたらすものは何か? を考えてみてほしい
自分自身の経験談を交えながら、皆様にに対して、日常写真:記録を残していくことを
強くお伝えさせて頂きます。
記事をご一読いただき、皆様にとってのきっかけになっていただければ、この上なく嬉しいです。
後悔と得られなくなったもの
後悔の内容

31歳を迎えた今でも強く残る、私自身の人生における後悔の1つが、次の内容になります。
(大学生後半に至るまでの)自分の日常、思い出の手掛かりとなる写真がほとんど残されていない
高校時代はガラケー、大学生時代からはandroidを使用と、写真を残せる環境・手段を有して
いたものの、残念ながら、写真を残そうと意識することはほとんどなく、今振り返ると、当時は
その日その日を雑に過ごすようなスタイルでいました。
学校からの配布物、アルバムなどは残っていますが、他に過去の思い出、過去の自分の手掛かりと
なるような写真や画像データがほとんどなく、断片的な破片状の記憶しかないような状況です。
配布物やアルバムにしても、自分自身に焦点を当てたような、オリジナリティある媒体では
ないため、過去の自分自身を事細かに読み取る:振り返ることはできません。
同一人物のはずなのに、過去の自分自身がどう過ごしていたのか、何を考えて、感じたのか…
それらを正確につかむことができず、自分自身が分断されている感覚-後悔に陥っています。
得られなくなったもの
・得られなくなったもの①⇒過去の間接的な再現手段
今の日常写真:記録など、取るに足らないものに過ぎない。なくても何ら困ることはない。
上記の様に考えられる方もいるかと思いますが、果たして本当に断言できるでしょうか?
取るに足らないものに過ぎない。なくても何ら困ることはない。
これは“現在の視点”から見ればその通りかもしれませんが、“将来の視点”も含めて考えた時、
本当に同じような考えに至るのでしょうか?
まず大前提として、いくらお金を積んでもタイムスリップ:過去に戻ることはできません。
そのため、同じ状態:ステータスで同じ体験をする…ということは不可能になります。
⇒昨日-今日とでは、自分自身や環境は全く異なり、昨日の状態を完全再現することは不可能です。
将来の視点では、今の体験や状態は、完全再現できない、希少性が高いモノになります。
過去を振り返るためには、間接的な手段:写真などの記録媒体を頼る、しかないのですが、
記録を残さないということは、この間接的な手段さえも放棄することと同義だと思います。
・得られなくなったもの②⇒写真や記録が持つ、将来の価値・可能性
タイムスリップが不可能であることは、過去に戻れないという事実に加えて、将来を前倒しで
見れない(先に答え合わせができない)ということも同じく意味します。
将来、年を取った時、本当に”過去の写真や記録は要らなかった” そう言い切れるでしょうか?
⇒前倒しでの、将来の答え合わせできない以上、”分かりません”になります。
ただ、この”分かりません”は “必要だった”という答えになる可能性を残していることになります。
また、将来において、今の日常写真:記録が有する価値は、今と全く変わらないでしょうか?
私たちは金利ある世界に住んでおり、これは、キャッシュが持つ価値は時間軸によって異なる
ことを意味します。日常写真:記録にも似たような考えが適用されるのではないでしょうか?
⇒日常写真:記録が有する価値は、時間軸(今-将来-もっと先の将来)で異なってくる
今の視点では無価値であるが、将来において、どのような価値を有するのかは分からない。
この将来の視点が抜けることで、日常写真:記録の将来の価値・可能性を見落とすことに
なってしまうと思います。
1枚の写真:記録でも多くの導火線になり得る
次に日常写真:記録が有するモノを紹介したいと思います。

上記の写真ですが、築地銀だこの明太味のたこ焼きの写真になります。
たったそれだけの写真:それだけ記録しか意味していない…と思われますが、違います。
- この写真は、社会人駆け出しの時、同期の仲間とイオンのフードコート内で撮った写真
- 当時は、休日になるたび、みんなでわいわいがやがやしていて楽しかった
- 食べながら給与や賞与で、何を購入するか、どんな使い方をするかで盛り上がった
- この時の同期の1人は辞めてしまったけれども、今でも連絡を取り合っているな
- たこ焼き食べた後にボーリングに行ったけど、散々なスコアだったな(楽しかったな)
- ボウリングと言えば、別の同期が凄いスコア出してたけど、そいつと銭湯に行ったな
上記の様に、様々な当時の事象を連載的に思い起こすことができます。
⇒多くの記録や体験の導火線:無数の点と点と繋ぐような価値を有していると感じます。
たった1枚の写真でも~10程度のことを思い起こすことができます。
これが複数枚、たくさんの記録、積みあがった時にはどうなるでしょうか?
更に将来の価値・可能性を含めて考えるとどうなるでしょうか?
それこそ無限大:計り知れない価値を有しているのではないでしょうか。
今-自分自身を将来に残すために

(話を私自身に戻します)
大学生後半からは、少しずつ写真を残すようになっていきました。学生生活という、今まで
当たり前であった日常が、なくなっていく:決して取り返すことができないことを
当時の自分が察知したからかでしょうか。
社会人になってからは、自分の価値観や内面感情が確固たるものになったためか、本当に多くの
写真を残すようになりました。旅行やイベント系は当然、友人や同期との食事や飲み会、日常の
散歩風景や些細なワンシーンなど、ふと思い立った時には写真を撮っています。
今はあまり重要ではない写真:記録かもしれないけれども、将来の自分が見返したら
色々なことを感じ取ってくれるような、価値あるものに変貌しているかもしれない。
今の写真:記録を残しつつも、将来に向けてワクワクするような自分がいます。
終幕-後悔を胸に、日々を刻み残す

最後に、改めて皆様に強くお伝えしたいことを記載します。
- 多くの人に、自分と同じような轍を踏んでほしくない
⇒将来になってから後悔してほしくない という想いから - 今の日常写真:記録が持つ価値・可能性を少しでも知ってほしい
⇒その人にとって無限大:かけがえのないものになる可能性を感じてほしい
ふと思い立った時に見返す、つらい時期に見返す、感傷に浸りたい時に見返す…。
今では、事あるごとに写真アルバムを見返すようになり、
それによって活力を補充するようになりました。
31歳の今ですら、上記のような状態:価値を感じつつありますので、
更に10年、20年経った時にはどうなっているのか…本当に楽しみです。
少しでも、今回の記事内容が閲覧頂いた皆様にとって、有益:刺さるもので
写真や記録を残す、小さなきっかけになっていただければ、この上なく嬉しいです。
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