日々の日常に小さな幸せを
本サイトを運営している、サンプルブロガーと申します。
30代の社会人兼個人ブロガーで、2025年の4月よりブログ運営をスタートしています。
縁があって本サイトにお越しいただいた皆様に、運営者のバックグラウンド-これまでの人生を
可能な限り、赤裸々にお伝えするプロフィールページになります。
長くなりますが、事細かく記載していますので、良かったらご覧ください。

- サンプルブロガー
- 1994生まれ 山梨県山村部出身
- 山梨県⇒北海道⇒九州
- コーヒーと歴史人文系の書籍が好き
- 山梨/札幌/佐世保に強い思い入れ
- 2つの願い・夢 (1)大学時代を過ごした札幌で一人暮らしをすること (2)人生の終わり-ゴールを生まれの 山梨で終えること
【Google マップから見る、私の地元地図⇩】
現状-今までの積み重ねの結果 としての自己
1994年(平成6年)生まれで、このプロフィールを編集している時点で、誕生日を迎えており
現在(2025年11月では)31歳となります。
好きなものはコーヒーとセットで頂いているパン、コーヒーをお供に読書する時間です。
基本的にインドア体質であり、休日はお散歩ルーティーンや買い物を除くと、自室でコーヒーや
読書に時間を割くことが多いです。





外面は優しく、接しやすいように振舞っています。一方で、本心や本音はごく限られた友人や
家族にしか明かさないなど、“狭く・深く”を好む内面タイプになっています。
外面と内面で共通しているのは、価値観が独特-ある意味尖っている 点かなと思います。
本ブログ内では、勿論内面ベース-本心や本音で記事を投稿していますが
現状の私に至るまでの経緯-何がどう積み重なって、今の私が形成されたのかを
幼少期から社会人時代に至るまで、細かく記載していきます。
幼少期-祖父と読書と..
物心が着いたのは、3歳~4歳頃の時で、思い出される多くの記憶に祖父が絡んできます。
両親共に公務員家系で、兄弟姉妹も年が離れ、就学していたために、祖父が私のお世話、面倒を
見てくれました。私自身が言うのも…ですが、祖父は本当に優しく接してくれて、溺愛されて
いたと思います。そのため、幼少期の私は”おじいちゃんっ子”でした。
祖父は太平洋戦争経験者であり、北方戦線に従事しており、戦争終結後は山梨に帰還し
今の実家建築や土地購入などを実施し、堅実な財をなしていった…という今思い返しても
本当にすごい人だったと思います。

そんな祖父が幼少期の私によくしてくれたことが”歴史や自身の戦争体験談を語ってくれる”です。
お風呂や一緒の布団の中で、自身の昭和時代や戦場での仲間とのことを語りかけてくれました。
また祖父は歴史系の漫画をよく買ってくれました。横山光輝さんの三國志、水滸伝、項羽と劉邦..
大好きな祖父からの本ということで、暇があれば、それらの歴史系の漫画や本を読んでいました。
そのため、友人たちや同級生が休み時間に外で遊ぶ中、私は図書室や教室で一人本を読む…ことも
珍しくなかったとか。今の歴史人文系好きやインドア体質幼少期が起点になっています。

幼少期の思い出の8~9割は祖父に占められています。習い事-習字や水泳教室、同級生と
遊んだ記憶も残っていますが、祖父の存在なしに私自身を語ることは出来ないです。
それくらい、祖父との暖かくて優しい思い出が、たくさん詰まっています。
学生時代①-祖父と別れと死生観の芽生え
私にたくさんの思い出と優しさを与えてくれた祖父ですが、私が中学生1年の2/15日に亡くなり
ました。内臓に水が溜まり、排出出来なくなったことが死因でした。
当時は塾で勉強していて、ふと先生が真面目な顔をしつつ、メモ用紙を渡してくれたのですが、
そこには”祖父が亡くなった”と書かれていました。
今の状況に、頭が追い付かず…というよりも理解を拒んでいたのだと思います。
病院に駆けつけると、今まで私を優しくしてくれた祖父が目を閉じて眠っているような
姿がありました。
泣きながらもお通夜・葬式を終えましたが、祖父が亡くなって暫くの間は、ぽっかりと穴が
空いたような感覚-強い虚無感に襲われていました。いつも私のすぐそばにいてくれた祖父がいない。
今までの日常-当たり前の幸せが崩れ去った。本当に虚無に似た何か..という形容しずらい
つらい・苦しい感情に包まれていました。

中学生時代には勿論、楽しい・有意義な思い出も残っています。部活動、生徒会活動、修学旅行、
学園祭など…。アルバムを見返してみると、たくさんの思い出があふれ出てきます。
一方で祖父が亡くなったことを通じ、今までどこか遠い世界の出来事であった”死”-いつかは
消えてなくなる ということが、私にも降りかかる-現実に起こり得るということが
心に強く刻まれました。
今でも続く、私の死生観は中学生時代-祖父の死から芽生え始めていたと思います。
学生時代②-失恋の記憶と自分の居場所
小、中学生の同級生や恩師の多くと別れてスタートした高校生時代。
ここも多くの思い出がありますが、特に強く刻まれている思い出は
(1)部活動 (2)失恋の記憶 (3)学習塾での日々 の3つになります。
部活動-現在まで続く、繋がりの源流
(1)の部活動については、水泳部に所属し、3年生の総体(~5月中旬頃)までは、学校時間の
半分ほどを部活動-練習場であるプールや所属メンバーと共に過ごすことになりました。
小学生時代に習い事の1つとして水泳教室に通っていたことが縁となっての入部でしたが
周囲の同期や先輩方は、高校に至るまで水泳に明け暮れていたメンバーも多く、
練習量も(思い出補正込みですが)ハードで、毎日毎日ついていくのがやっとの状態でした。
リレーメンバー選出や大会上位進出…するような成果は残せませんでしたが
高校総体まで辞めることなく、しっかりとやり切る形で引退することが出来ました。
最後までやり通した事実も(個人的に)大きいですが、それ以上に部活動を通じて
形成された部活同期との繋がりに強く感謝しています。
大学から地元を離れて久しいですが、帰省の際には、顔見せや食事などでお互いの近況報告や
昔話に花を咲かせています。
高校卒業から10年+α経過していますが、この繋がりを絶やさぬように、今後も大切に
していきたいと思います。
失恋の記憶-人格形成におけるマスターピース
異性に初めて恋愛感情を覚えたのは、小学生高学年の時ですが、一番印象に残っている恋愛感情は
何か? と問われた時には、間違いなく高校時代の記憶が思い浮かびます。
見出しにも記載の通り、この恋愛感情が成就することはありませんでした。
ただ、大人になった今振り返ってみると、失恋も含めて高校時代に恋愛感情を抱くことや
それに関する様々な感情や経験をできたことは、間違いなく良かったと感じます。
同じクラスメイトの女性でした。要領や効率が悪く、作業量でカバーする自分に対して、
真反対に思考や要領、効率的なスキルを有している人で、私自身が持っていなかったものを
有している”憧れ”も恋愛感情の中に含まれていたかもしれません。
ただ、何より穏やかで、心優しい性格に強く惹かれたのは間違いないと思います。
誰もいない空き教室、直接告白した後の数秒間の沈黙と、”ごめんなさい”の言葉は
今でも思い出せます(当時は悪い意味でフラッシュバックすることが多かったです…)
失恋後は色々と思い悩みました。しかし、その中で自分自身の立ち位置や相手との関係
自分の何がダメでどうするべきだったのか、今後自分がどうするべきなのか など
多くの物事を真剣に、内面の自分と共に考えることができ、今の自分へと至る人格形成の
重要ピース:マスターピースが形成されていったと思います。
相手の女性は、高校卒業後は全く会っていませんが、幸せな人生を過ごされていることを願いつつ
次の言葉を残したいと思います。
”色々と迷惑をかけてごめんなさい。そして本当にありがとう。”
学習塾-第二の実家、自分が成長できた居場所
高校時代、第二の実家とも呼ぶことができる居場所がありました。学習塾です。
小学生低学年時代に、夏季の短期講座を受講したのがきっかけとなり、
中学生時代には週3ペース、高校時代には毎日通うことになった。思い出たくさんの学習塾です。

学習塾に関しての大きな思い出-記憶は2つ、中学生時代と高校生時代にあります。
まず中学生時代、慣れない新しい環境で、学業や部活動に追われる日々…。
どちらもパッとせず、学業は下から数えたほうが早い立ち位置だったと思います。
その中、中学2年の秋頃、学習塾のA先生からアドバイスを頂きました。
”2年の冬に社会と理科をやっておくと成績が伸びるから、しっかり学習してみなよ”
半信半疑でしたが、A先生にはお世話になっていたので、とりあえず社会と理科に
集中して学習に力を入れ始めました。
中学生3年生になり、初めての実力テスト。今でも忘れませんが、学習塾内で1番の成績を修めることが出来ました。A先生のアドバイス通り、コツコツと継続学習していた社会と理科の成績が
大きくUP、この2科目に大きく助けられる結果になりました。
目に見える形での大きな成果、とても嬉しかったのを記憶しています。そこからは時間があれば、
学習塾で行き、自習室で没頭する世に自習をするようになりました。1つの成功体験がきっかけとなり、勉強が楽しい⇒学習する⇒成績UP⇒…という良いスパイラルが構築されていきました。
A先生、他にもI先生やM先生など、気さくで優しい、でもやるべき事や厳しいところはしっかりと
される先生方に中学生時代は支えられていたと思います。 本当に感謝しかありません。

高校生時代になると、新たな環境になったこともあり、中学生時代からの知り合いは次々と
退塾していき、最終的な同級生の人数は片手+αで足りる人数に…そして私は文系を選びましたが
学習塾内での文系は私一人…という状況になりました(上や下世代はそこそこいたのですが…)
部活の現役時代は、部活終わりにそのまま学習塾に直行するのですが、ハードな水泳練習終わり…ということで、講義時間はだいたいは寝落ち、ひどい時には講義終了までずっと寝落ち状態という
酷い有り様でした。今振り返るとよく見放されなかった..と自分事ながら眩暈がします。
そんな酷い有り様の私でしたが、中学時代に学習習慣が付いていたこと、塾の先生方が
(文系は私1人)ということもあり、付きっきりで面倒を見て頂いたことが支えとなり
中学生時代前半のように下から数えたほうが…という状態にはなりませんでした。
部活引退後の高校3年生-梅雨頃からは、本当に塾に缶詰め状態で学習に励みました。
間違いなく自宅、学校よりも居る時間は長く、第二の実家のような感覚でした。
on/off共にメリハリ付けて対応頂いたW先生、途中で異動となってしまいましたが
苦手な数学を教えてくださったM先生、そして毎晩の送迎であったり、学習の枠を超えて
人生相談までのっていただいたF先生。本当に素晴らしい方々のおかげで
北海道大学に合格することが出来ました。
月日が経った今、先生方はそれぞれの道を歩まれていると思いますが、改めて感謝の気持ちを
贈りたいです。本当にありがとうございました
学生時代③-北海道と新しい自分
高校3年生までを過ごした山梨を離れ、一人初めて降り立った新天地-北海道、札幌。
この地で過ごした大学生4年間は、本当に有意義、思い入れの深い期間となりました。
この4年間によって、私自身、新たな価値観、体験、思考を獲得することができ
高校生までの私自身とは異なる、新しい自分を発見できたと感じています。

大学生活-北海道大学での歩み
大学受験では、特定の学部受験ではなく、2年次の進級時にGPAと希望から学部を決める、
総合文系の枠で入学しました。
1年次は高等教育推進機構…長いので、教養棟(と私は読呼称していました)、2年次からは文系棟で講義やゼミを受講、勉強する日々を送ることになりました。



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2年次の学部選択では、法学部/教育学部/経済学部/文学部 の4つ選択肢がありましたが
(元々興味があり、好きでもあった)文学部を希望し、無事進級することが出来ました。


また、ゼミ活動に関しては、歴史文化論講座 という名のゼミに所属していましたが
そのゼミの場所は、有形文化財にも登録されている、古河講堂でした。
今は封鎖されており、中には入れない状況。歴史文化論講座も封鎖に伴って
解散し、他ゼミに統合されており、振り返ると、その歴史文化論講座に所属し、古河講堂内で
色々と活動できたのは幸運であったと感じます。


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大学生活-札幌での一人暮らし
大学生入学と同時に、人生で初めての一人暮らしがスタートしましたが
一人暮らしの拠点としては、札幌北区-最寄り駅ですと 北24条駅付近で
生活を送ることになりました。
【Google マップ⇩】
また余談にはなりますが、再び札幌で一人暮らしをする(私の願いと夢)の際には
再びこの北24条駅付近の住まいで、リスタート-願いと夢を叶える と決めています。


一人暮らしで印象に残っていることは、数多くありますが、やはり積雪の多さゆえの
独特の雰囲気-幻想的な閉じた空間が思い浮かびます。





閉じた空間、というワードだけでは、冷たく、マイナス的なイメージを感じる方も
いると思いますが、その環境が私にとっては、大きく突き刺さるものがありました。
閉ざされている環境であるが故に、日々の生活や1つ1つの出来事、接する人々の
温かみを強く感じることができたのです。

”大学時代を過ごした札幌で一人暮らしをすること ”
北海道-札幌で暮らすことで、人生の幸福度の最大化を図る この私の願いは
大学生時代の4年間が強く紐づくものとなっています。